「カルティニの日」とは、インドネシアの女性解放運動の先駆者、カルティニの生誕を祝う日で、今年は143周年にあたる。カルティニの生涯について、また、今を生きるインドネシア人の意見も合わせてご紹介する。
インドネシアでは、4月21日はカルティニの日として知られている。この日、地元の幼稚園や小中学校では、インドネシアの各地域の伝統衣装や、医者やパイロットの制服を着た子ども達のパレードが行われる。
カルティニの生涯
・植民地時代に西洋教育を受けたジャワ人女性
女性の権利と女性教育を提唱したインドネシアの女性活動家カルティニ(Raden Adjeng Kartini)は、オランダ植民地時代の1879年4月21日、ジャワ島中部のジュパラの進歩的貴族の娘として生まれた。父親のラデン・マス・アディパティ・アリオ・ソスロニングラトはジュパラで市長を務めていた。カルティニは6歳になると、Europeesche Lagere Schoolという、欧州およびインドネシアの高貴な家の子弟のための小学校に通った。
オランダ語や西洋の作法、価値観を学んだカルティニは、小学校卒業後、さらなる教育を求めたが、当時のジャワの女性は高等教育を禁じられていた。ジャワの伝統では12歳を過ぎた女性は結婚準備のため、結婚するまで実家から一歩も出てはいけなかったからだ。実家で過ごす不自由な生活の間もカルティニはオランダ語の雑誌や新聞を読み、自由主義思想を養い、社会的地位が非常に低かったインドネシア人女性の状態を改善したいと強く願うようになった。同時に、イスラム教の考え方や植民地支配にも疑問を持つようになったといわれる。1899年、21歳のカルティニは複数のオランダ人と文通を開始し、1904年まで続いた。
・学校設立〜結婚、死
女性の地位向上のみならず広い意味での社会変革の必要を感じていたカルティニは、その一歩として1902年、ジュパラでジャワの貴族階級の子女を対象にした学校を開き、女性の経済的自立を進めるべく職業教育を目指した。そして1903年、24歳になったカルティニは、両親の意思によりKRMアディパティ・アリオ・シンギー・ジョジョ・アディニングラトというレンバン市長を務める貴族と結婚した。夫は学校に協力することを約束したが、既に3人の妻がいた。1904年、カルティニは第一子を出産した数日後、産じょく熱により25歳の若さで亡くなった。遺体はレンバンのブル村に埋葬された。学校はカルティニの死去により閉鎖となった。
・カルティニの死後
文通相手の一人にローザ・アベンダノンという女性がいた。ローザの夫であるジャック・アベンダノンは、オランダ領東インド(現在のインドネシア)で文化・宗教・工芸大臣を務めていた。彼はカルティニの死後、カルティニがオランダ人の友人に送った手紙を集めて本にした。タイトルは「闇から光へ」で、1911年に出版された。この本は5回再版され、最後の版には手紙が1通追加された。この手紙は英語に翻訳され、ジャワ出身の女性が書いた手紙として大きな関心を集めた。カルティニの考え方は、オランダ人のジャワ人女性の見方を変え始めた。1912年には本の収益によりカルティニ基金が設けられ、カルティニ女学校が開設された。
1922年、カルティニの本はマレー語に訳されて出版された。そして1938年には、作家アルミン・パネが内容を5つの章に分け、カルティニの手紙における考え方の変遷を示した。この本は11回再版された。その後、カルティニの考えにインスピレーションを受け、女性の独立闘争を描いた「私たちの母カルティニ」という曲も作曲され、インドネシア国民の自覚を促し、民族運動を覚醒させる原動力になった。
1964年、スカルノ大統領(当時)は同年5月2日付けの大統領令第108号で、カルティニを「国家独立の英雄」とした。カルティニの誕生日である4月21日は「カルティニの日」となり、祝賀行事が催されるようになった。
カルティニあれこれ
①カルティニというクバヤ
ジャワの女性の伝統衣装クバヤは、女性の体の線に沿った美しい衣装だ。そのクバヤの中に、カルティニと呼ばれるデザインがある。これは、カルティニがいつもクバヤを着用していたことから付けられた名前だ。
②カルティニの日の民族衣装パレート
カルティニが「国家独立の英雄」となった1964年以降、各地の学校では子ども達が民族衣装を着てパレードを行うイベントが行事化されるようになった。


インドネシア人から見たカルティニ 20〜30代の女性3人とさらさ編集部スタッフ4人に、カルティニへの思いを聞いた。
”カルティニの日は、女性に力を与え、女性の権利のために戦ったヒロインであるカルティニの誕生日を祝う日です。私たち女性はカルティニの精神を継承し、学習と成長を続け、教育の機会を与えられていない女性が権利として教育を受けることができるよう支援しなければなりません。” (リズキ、 学生 22歳)
”私にとってカルティニの日は、インドネシアの女性が権利を認められた出発点です。圧力や人の意見に左右されることなく選挙で投票する権利だけでなく、女性は物ではなく人間であることを認められなくてはいけません。”(レンア、 主婦 28歳)
”小学校時代、カルティニの日には皆で伝統衣装を着ました。カルティニの日は、女性が教育を受け、仕事を持ち、男性と同じ権利を持つことの象徴です。能力面では女性は男性に劣ることはありません。さらに、家族の面倒も見ることができて、女性は素晴らしいです。”(ヘラ、 会社員 38歳)
”カルティニは、インドネシアがまだ植民地だった時代にもかかわらず、民族主義的な精神を持っていた人物です。カルティニは、インドネシアの女性に男性と同じ機会を与えたいと願っていました。そしてその闘志により、カルティニはついに夢を叶えました。インドネシアは独立し、インドネシアの女性は男性と同じ権利と機会を持っています。ですから今の時代の女性は、カルティニが望んだように、空と同じくらい高い夢に手を伸ばしていきましょう。”(リザル、48歳 男性)
”カルティニはインドネシアの女性にとって最も功績のある人物の一人です。 カルティニは、女性が特定のものに「制限」されることなく選択する機会を与えてくれました。同時に、他の女性の選択を尊敬し、その選択のために戦った女性を尊重することも教えてくれました。勉強をより高いレベルまで続けるという選択、家族を持つという選択、キャリアを持つという選択、自立して生きるという選択など、それが何であれ私は尊敬します。”(ドウィ、 31歳 女性)
”国を支える世代として 、カルティニを尊重するために私たちができることは、可能な限り最善の方法で彼女の闘いを続けることです。教育は国と国家の進歩にとって非常に重要です。ですから、私たちは、読み書きのできない子ども達に読み方を教えることや、中途退学者を助けることなど、身の周りの小さなことから始めましょう。”(イイス、 38歳 女性)
”カルティニは植民時代にあって高度な思考を持ち、教育を受ける権利を含むインドネシアの女性の権利と平等のために非常に功績を残した人物です。今の時代の私たちは、カルティニに感謝し、自分にできることをやっていけたらと思います。個人的には、私は知識を得ることに貪欲になり、視野を広げたいと思っています。読み書きができないことで、私のように知識を得られないインドネシア人がまだいるのです。読み書きができて知識を身につけられる私は幸運です。”(アニサ、 29歳 女性)