2021年12月下旬、工事の進むMRT第二期区間、CP203工区にて、かつての市電の線路が発掘されました。これまでも、道路工事などでアスファルトがはがされた際、市電の線路が露出することはありましたが、ここまでしっかりした形で姿を現したことはありませんでした。路面電車を廃止する際、ほとんどの場合レールの撤去は行わず、そのままアスファルトで埋めるので、日本でもこうしたことはしばしばあります。
今回、市電のレールが露出したのは、ガジャマダ通りのグロドック~コタ間。ちょうど、グロドックのパサールグロドックとオリオンプラザを結ぶ連絡通路が道路をまたいでいる下付近、汲泉茶舎の前になります。CP203工区となるマンガブサル~コタ間は2020年9月に着工し、現在は本格的な掘削開始のため、開削工法で建設される各駅部の道路上の構造物の撤去や移設を主に行っています。
つまり、今回露出した市電の線路は、バスレーン下に埋まっていたものなのです。それもそのはずで、現在のトランスジャカルタの一部路線は、かつての市電のルートを踏襲しています。かつて、市電が走っていたからこそ、道幅が広く、バスレーンを設置する余裕があったともいえます。今回、このようにピンポイントでレールが出現した背景には、工事前の段階から、識者やジャカルタ特別州の文化財保存の担当部署等から織り込み済だったのでは、と思います。
さて、バタヴィア市電は最盛期5系統が運行されていました。今回、姿を現したのはパサールイカン~ハルモニ~ジュアンダ~カンプンムラユを結ぶ1系統のものです。現在のトランスジャカルタのコリドー1とコリドー5を組み合わせた格好です。この路面電車は、オランダの手によって1869年に馬車軌道(Bataviasche TramwayMaatschappij)として開業しました。この時、標準軌1435㎜でも馬車軌である1372㎜でもなく、1188㎜という特殊な軌間が採用されました。冒頭の画像ではぱっと見、狭軌に見えますが、これこそが1188㎜軌間です。その後、蒸気機関の時代(NederlandschIndische Tramweg Maatschappij/NITM)を経て、1899年以降電化が進み、いわゆるバタヴィア市電(Batavia Eleketrische Tram Maatschappij/BTM)となり(蒸気機関で運行する車両は引き続きNITMが運行していた模様)、1900年代初頭までに計5系統が運行されるようになりました。1929年にNITMとBTMが合併し、Bataviasche Verkeers Maatschappij(BVM)と社名を変えています。日本統治下の1942年には、市電運営権もオランダから日本軍に移譲され、一時的にカタカナや漢字を使った行き先表示や乗り場案内も使われていました。第二次世界大戦後、オランダによる短期の運営を経て、インドネシア独立後はPerusahaan Pengangkutan Djakarta(PPD)へと引き継がれました。しかし、戦後の混乱期に電車を維持する力はなく、PPDには政府予算でオーストラリアから大型バスが投入され、1954年までに市電は全廃されました。PPDはバスオペレーターとして現在も存続しており、トランスジャカルタの運行にも加わっています。

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なお、今回出現したレールは既に撤去され、見ることはできません。ただし、市電の線路自体は2013年からファタヒラ広場の一角に展示されています。それから、クボンパラ付近、マタラマン通りをKAIの線路をまたぐ陸橋は市電を知る生き証人です。現在のカンプンムラユ方面の車線になっている部分は、かつての市電敷で、陸橋の下を市電は潜っていました。ただ、この鉄道の陸橋もオランダ時代から続くもので老朽化が著しく、複々線化事業の進展で2021年に役目を終えました。今後、撤去されるのか、保存されるのかは不明なので、気になる方は早めに訪問することをお勧めします。なお、この陸橋付近の風景は、インドネシア語版Wikipediaの冒頭写真で見ることができます。https://id.m.wikipedia.org/wiki/Jalur_trem_lintas_Jakarta



高木聡(たかぎ さとし)
神奈川出身。2012年7月よりジャカルタ在住。
中古電車がジャカルタに渡ったことをきっかけに2009年にインドネシアを初訪問し、当地の魅力にハマって移住。横浜線は物心ついた時から当たり前の存在。今はその中古車両に揺られ通勤するという不思議な日々。
※2022年 2 月号掲載